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社長の華. GLOBAL

中村 優志氏 株式会社リシュブルー「日本酒PR、化粧品企画販売」

サンパウロ、ゴールドコーストでの新たな環境

Q: どの様な幼少期を過ごされましたか?

横浜で私は長男として生まれ、銀行員である両親の仕事の都合で生後1年後にブラジルのサンパウロに引っ越し、5歳まで現地で暮らしました。サンパウロのローカルの幼稚園に入園したためポルトガル語での会話でしたが、その異文化が貴重な体験となりました。幼少期ながら自分の知らないフィールドに飛び込むことへの抵抗感が下がり、今振り返るとあの頃の経験が今の私の行動マインドのベースが形成されたと思います。

その後東京や仙台への引っ越しを繰り返し、小4の終わりから東京練馬での生活が続きます。

中3の頃、練馬区の中学34校から男女1名ずつ、合計68名が練馬区と姉妹都市契約を結んでいるオーストラリアのゴールドコーストでホームステイする交換留学プロジェクトがあり、これに興味を持ち応募してみました。かなり倍率が高いだろうと思っていたのですが、男性1人枠に対して応募は意外と3人のみで、蓋を開けてみると多くの人がそういった知らない環境に飛び込むことに抵抗やある種の怖さを感じていることを知りました。新たな環境に飛び込むというアクションは自分としては特別な事ではありませんでしたが、 この出来事を機にそれは自分の特性であると気付かされました。関心ある事に対して欲に忠実にとりあえず行動してみる。この頃から、良くも悪くも行動に対してリスクを恐れないマインドを持っていたのかなと思います。

フランスへの留学から起業への意識の芽生え

Q: 学生時代は何に関心がありましたか?

中学生の時にテレビで観たアフリカや東南アジアでの貧困問題に関心を持ち、関連する文献を読んで掘り下げるうちに貧困問題などに関連した国際関係学を学びたいと思い、それらを学べる青山学院大学国際政治経済学部に進学しました。

国際政治の学問を学ぶとともに第二外国語としてフランス語の習得もしていたのですが、旧フランスの植民地であったアフリカの貧困事情を学ぶにつれて更にフランス語の勉強が楽しくなり、大学3年生の時に1年程休学してフランスのブルゴーニュ大学に留学しました。現地ではフランス人の漫画研究会に顔を出したり、日本語教室でアシスタントとして勤務したり、現地生活に馴染むため積極的にローカルに飛び込んで交流していましたが、その行動に対してこの際も周りから驚かれたりしました。当時は言語の習得だけではなく、メンタルを鍛える重要性も感じ、何事にも臆せず行動する事に対してこの頃から更に意識するようになりました。

 帰国後、当時美大の学生であった私の妻が油絵を描いたりアクセサリーやジュエリーを作り友達にプレゼントしていたのを見て、ビジネスに出来るのではないかと考え、競合を調べたりECサイトを作り販売を試みました。それまでは飲食店やイベントスタッフでアルバイトはしていましたが、それらはあくまでそのビジネスの全体像の一部の役割でしかないと感じ、トータルで物事を考えて事業化することに面白みを覚え、そこから漠然と将来的に起業や経営に携わりたいと意識するようになりました。

三井住友銀行、アクサ勤務からガン宣告の転機

Q : 社会人経験を教えてください。

大学卒業後は、経営や財務の仕事に直に関わることができる仕事がしたいと考え、新卒で三井住友銀行に入社しました。長野の法人営業部に配属され、3年間長野県の中小企業を対象に融資や財務を担当しました。その後、長野赴任から東京丸の内本社に転勤となり、そこでも3年ほど勤務をして大企業を相手に金融商品を販売する仕事をしていました。

仕事にも慣れてきてはいましたが、次は人をマネジメントすることを経験したいと考え、新しいステージに挑戦したく28歳の時にアクサに転職しました。

営業セクションにおける管理職としての業務に邁進していましたが、勤務後半年も経たない時に、私の人生の転機となる精巣癌が発覚しました。しこりがあったため妻に相談したところ「明日病院行ってきたら」と言われ、そのまま病院で検査をすることになるのですが、結果的にこれが幸いにもステージ1の早期発見となりました。実際のところは癌と診断されてから数日はすぐにステージの進行まではわからないため、その間しばらく「死」の可能性を感じてその感情と向き合い、「このまま死ぬとしたら今までの人生は満足だったのか」「やりたい事でやれていないのがあるのでは」というように考え、いま真にやりたいことの棚卸しをした結果、優先順位が高かったのが『起業』だったのです。

起業アイデアを色々考えた結果、長野県での赴任時代から関心を持っていた「日本酒」で起業する決意をしました。幸いなことに結果的に病気は治り、アクサは闘病期間を含め1年半ほど在籍しましたが、当時の上司からも価値観を理解していただき送り出してくれまし た。

日本酒PRと酒粕を用いた化粧品、乳液の商品化

Q: なぜ日本酒で起業しようと思ったのですか?

日本酒で起業をするきっかけとなったのは、三井住友銀行での長野勤務の頃の酒蔵メーカーの方との出会いです。その方とのやりとりを通して、”職人” の世界ではその道のこだわりがあるのですが、その商品の良さを届ける「プロモーション、マーケティング」の必要性を強く感じていました。

例えば、長野勤務を終えて東京に転勤となった際も、帰り際に日本酒を飲もうと八重洲の日本酒専門店に立ち寄りそこで長野県のお酒を探しても取扱いが無かった、みたいなシーンが多くあったのです。

いかに日本酒が面白いコンテンツであるかを認知させるか、且ついかに日本酒業界の発展に寄与ができるかというのをベースに色々考えました。

日本酒の製造工程の終わりの「絞り」という作業で酒粕が発生するのですが、廃棄されることも多い中で、その酒粕を活用した酒粕コスメや家畜飼料などに可能性を感じました。日本酒を飲む、酒粕を食べる、これら以外のアクションで日本酒関連のビジネスを事業として出来ないかと考えた結果、今の日本酒をコンセプトにした化粧水、乳液のビジネスアイデアが生まれたのです。

女性の中で酒粕パックなど美容に関するニーズがあるとわかりましたが、男女兼用の日本酒をコンセプトにしたスキンケアがほとんどありませんした。そこで男女兼用の商品として日本酒をコンセプトにした化粧品、 『蔵寿-coolage』が誕生し、現時点では弊社のメイン商品となっています。

Riche Bleu ウェブサイト 日本酒化粧水、乳液「蔵寿-coolage」

今後もアイデアで事業モデルを生み続ける企業へ

Q: 将来的にはどの様な活動をされますか?

化粧水、乳液などの美容以外でも日本酒業界には、輸出、DX、事業再生など多くの取り組めるビジネスがあると考えています。

銀行員時代の経験から、後継者不足等に悩む酒蔵の事業再生にも積極的に貢献出来たらなと思いますし、その他財務の観点から多くの取組みができる業界だと思っています。

また今後日本酒の市場を国内のみで見た場合だと人口の観点も含めて苦しい部分もありますが、ご存じの通り「SAKE」は世界的にも人気が出ており、輸出も今後伸びていくと考えています。例えば、日本酒ラベルを萌えキャラにして、付加価値を与えて海外のオタク層を取り込んだり、国内の酒造を擬人化して、インバウンド誘致につなげたりと国を超えた新たな市場は開拓できると考えます。

またDXを浸透させていくことも魅力的だと考えています。例えば、日本酒は詳しくない30代の男性が「仕事で疲れて上司に怒られヘトヘトになってる今の自分に適している日本酒は何ですか」とのリクエストに即したお酒の提案が得られるレコメンドシステムの構築など面白いと思います。日本酒離れが進んでいる理由のひとつとして、日本酒というものがそもそもよくわからないから選ぶ判断基準が無い、という点があるんじゃないかと考えています。日本酒がよくわからない人、自分に適したお酒がわからない人に対し、そのハードルを少しでも下げる事は可能です。酒蔵と提携する事によりお客様のニーズをデーターベース化して、飲食店やECサイトでも活用できるのではと考えていますし、DXを利用して酒蔵のブランディングにも繋がるとも思っています。

どの様な業界でも旧態依然の状況から、新たな挑戦に一歩踏み込むことは必要かと思います。私自身、アイデアから事業を生み出す事に喜びを感じます。今後も総合商社的に日本酒業界に関わるビジネスモデルを作り出し、それを協力いただける企業様と共に形にしていきたいです。

今回たまたま出会いがあったのが日本酒業界でしたが、焼物やお茶でも日本文化で職人的な業界がまだ多く存在しています。まずは日本酒業界で貢献することにより、それが成功事例、マイルストーンとなり、いずれ将来的には他の業界にも挑戦できればと思います。

ありがとうございます。日本酒も世界的に人気が出ており、今後の世界に向けた日本酒PRの活動はより可能性を感じます。日本酒が苦手な方でも、化粧品、乳液を提供していますので、是非ウェブサイトから確認してみてください。

中村優志さん

中村優志さんのプロフィール

会社: 株式会社 リシュブルー 代表取締役社長

所在: 東京都練馬区豊玉中4-12-1-324 

ウェブサイト: https://riche-bleu.jp/

出身: 東京都

大学: 青山学院大学 国際政治学部. 卒

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