中国福建省から12歳で東京初来日
お茶の産地として有名な中国の福建省で生まれました。私は兄2人がいる末っ子ですが、周りの歳上の立ち振る舞いを見ながら育ちました。外で活発に遊ぶ天真爛漫な子供で、幼少期から周りとは違うユニークな物に興味があり、洋服も子供ながらに自分で決めて買いたい我の強さがありました。
両親は以前から仕事のため訪日を繰り返したため、私は祖父母と多くの時間を過ごしました。12歳の頃に「家族旅行で日本に行こう」と旅行を愉しむつもりで初来日しましたが、来日後、家族間での急な決定もあり親から「これから日本に住むんだ」と突然伝えられました。観光気分で2週間で帰国する予定が、結局1年程日本に滞在。中国ではクラスの学級委員もして私が突然中国を去ることになったのです。
茶道と空手で日本文化の真髄に触れる
日本の第一印象は、繁華街が綺麗なイメージです。日本では荒川区の公立中学に在籍しました。当初は全く日本語が出来ず新たな生活には馴染めませんでした。半年間は授業も何を言っているか全く理解出来ません。一生懸命日本語を勉強して、半年後から徐々に理解できる様になりましが、ある程度慣れ始めた中2の後半から、親の仕事で川崎市に転校。高校も川崎で過ごしました。
東京荒川区では1クラスに1−3人ほどフィリピン、韓国、中国などの外国籍の生徒がいて、学校側も扱いが慣れて手厚い対応でした。その反面、川崎市は外国籍がほぼいないローカルで私も日本人と同等の扱いでした。高校も県立高校に一般受験しました。高校で “言語” に壁がなくても “文化” に壁を感じました。言語的に理解できても友達になる距離感が中国と違い悩んだ時期もあります。それでも「自分は自分でいいのだ」との自然体で、他人には無理には従わずに、自分の世界の愉しみ方を覚えました。
日本文化が好きでしたので高校は、週1の軽い感じで茶道部に所属しました。また大学から空手を初めて私は “初段” を取得しています。茶道と空手を通して、日本文化の真髄、人を敬う事を学びました。日本と中国には共通したアイティティーがあり茶道など大陸から発祥したものでも日本はうまく独自の文化として伝承しているのが魅力的に感じます。
筑波大学からテルモ、ベンチャー、シンガポールへ
その後は筑波大学の医学群、医療科学類に進学。世の中がどの様に変わろうが医療は不可欠なので探求したいと思い医学の道を進みました。身体的にも、精神的にも人をより理解したい好奇心があり、結局私は “人”に興味があるのです。大学4年間は多忙でしたが充実感がありました。平日は授業に追われその後はバイトや空手に励み、課外活動として大学の海外プログラムにも参加。台湾、インドネシア、アメリカ、ロシアに滞在しました。筑波大学はグローバルな環境で学生の3割ほどは留学生で、私の3−4年生の研究室では公用語は完全に英語でした。
私が参加したのは、遺伝子改変マウスを使った糖尿病にかかわるインスリン産生細胞の遺伝子解析に関する基礎研究です。また健康にも関心があり管理栄養士にもなろうとしたほどです。卒業後は、研究機関、企業や大学で研究者になる学生が大半で、私の様に一般企業への就職するケースは稀でした。
卒業後は医療器メーカーのテルモに就職。配属先は大阪でした。グローバルに活動できる海外部門にチャンスがあるかと思いましたが、現実的には若手として海外への機会を得るのは限られました。新卒の経験から多くの学ぶ事がありましたが、自分自身で自分のキャリアを築き上げたく転職しました。
転職先はベンチャーのスタートアップ系。インバウンドの宿泊施設の管理会社で事業開発部署の所属でした。社員はアジア出身の方が多くベトナムにもコールセンターがあり、顧客もインバウンドを受け入れる企業など、私が理想とするグローバルな働き方に近くて充実感がありました。
いつかは海外で働きたいという夢があり、その後、シンガポールの友人からの紹介で、人材会社からオファーをいただきシンガポールに拠点を移しました。大半がローカルの方で、残りは海外経験のある日本人でしたので働きやすいカルチャーでした。シンガポール滞在中に自分のアイデンティティーを多く考えせられました。一番の収穫は「自分は自分で良いのだ」と日本では心の奥底では常に、私は日本語が下手だなとか、人の目を気にしていましたが、シンガポールだと人の目を気にせず、謙遜する必要もなく、外国人という疎外感もなくその空気感は快適でした。
1年程の滞在でコロナがなければ現地に永住してシンガポールと日本、中国を繋げる事業を始める予定もありましたが、結局コロナ禍で一旦日本に帰国しました、
日本と世界にある溝を埋めるために起業
起業への夢は大学生の頃からありました。シンガポールの経験を通して、日本と海外間で活躍できる人が足らず、この領域で架け橋となるアンバサダー的な人材が今後より必要であると感じていました。それなら自分で起業して自らがプラットフォームを構築しようと考えました。
帰国後半年は個人事業主として語学コーチや通訳翻訳をしたり、またシンガポールではリクルーター関連の仕事をしていたので、その延長で採用プロジェクトの案件、日本企業の人材紹介部門の立ち上げ、マレーシアでの日本人募集などにも携わり、ある程度の収入は得られました。
日本と海外をつなぐ人と企業がもっと活躍してほしい、そして日本では人材不足は今後も続くと判断して、2021年11月12日に人材採用転職支援サービス業として株式会社We Global を設立しました。とりあえずやってみようと。起業後はLinkedInやTwitterなどを活用、様々な方との出会いや学びを通して一つづづ事業を形にしていきました。起業は学びであり、失敗しても学費だと思えば安いと思いました。起業は本より実践的に体で覚える。やるしかないともがく、もがかないと成長しない。初来日して日本生活に挑戦していた学生時代の感覚に似ていました。
最近でもトップダウンからの紹介で大手企業との契約に至ったり、私は結構、人様に恵まれてると感じます。SNSなどオンライン上でビジネスの新しい出会いを作るの好きですし、対面で人と接するのも好きです。人材事業を経営する上で一番大切だと思うのが、お客様と社員が弊社のミッションビジョンバリューを理解して共感していただく事が重要だと考えます。弊社の使命は『日本と世界にある溝を埋める』。それが十分理解して同じベクトルに向けた時、その人が分かる言葉で、国境を越えて更にその先に届けるのが私達の仕事だと思います。
人材ビジネスはスキルを考慮して優秀な人材をを探すのも重要ですが、それ以上に重要なのが価値観だと思います。ミッションを発信して価値観が近い人が集まれば必然的にシナジーがそこには生まれる。それが結果的に良い採用に繋がると信じています。
We Global ウェブサイト
クロスボーダーに特化した専門集団へ
今後も、クロスボーダーに特化した様々な事業に注力したいと思い描いています。クロスボーダーに事業を展開しようとする企業と繋がり、弊社の強みであるグローバル人材を活用していただき、様々な形でお手伝いができると考えます。
日本と世界を結ぶ。アウトバンドとして、日本にはまだ海外に届けていない価値があります。例えば、都市でも地方でも最新技術から伝統的な技術があるのに海外にはその知名度が一ミリも伝わっていないケースが多々あります。逆にインバウンドとして、日本市場で成功すると一つのブランディングに繋がるため、日本も好きだし日本に進出したいけど、情報収集源が日本語になってしまい参入障壁は非常に高いです。そもそも日本人の友人が欲しいけど出来ないという海外の方も多くいます。
言語も文化も商習慣も違う。まだ日本と世界には大きな溝が存在しているのです。
そこで、やはり『仲介役』が必要となります。
日本は独特であるからこそ、他のどの国よりも仲介に対する価値は高いと思います。そこで弊社がプラットフォームとなり、この領域の障壁を極力下げて、円滑に進められるようにサポートしてまいりたいと思います。国境を越えたかけ橋となりえる人材のニーズは今後益々増えると思います。言語ができる通訳としてだけではなく、ビジネス経験があり、商習慣を理解して意見をリードできる人。その様なバイルンガル人材を増やす必要があります。弊社は、人を軸としたクロスボーダーの専門集団にしたいと考えています。将来的にはHRからコンサル、メディア、M&Aなどの各部門が存在して全面的に支援を行うイメージとなります。
今後も継続して、このクロスボーダー界隈の方々と仲間を増やしていきたいです。私は人を応援するのが大好きです。人のキャリアを応援したい。将来的にはエンジェル投資家として、起業したい若手と事業モデルの壁打ちをしたいです。
私は結局何をしたいかと言えば、この変化の激しい世の中を自分の好奇心のままに生きていきたい。AIが台頭する時代でも人間ならではの「想像力」や「共感力」を持てる人と共に、少しでもグローバルな世の中に貢献していきたいですね。
周 如意さん 目黒雅叙園にて
周 如意さんのプロフィール
会社:株式会社 We Global 代表取締役社長
所在地:〒102-0074 東京都千代田区九段南 1-5-6リソナ九段ビル5F KSフロア
ウェブサイト :https://weglobal.co.jp/
出身:中国福建省生まれ 筑波大学 医学群 医療科学類 卒