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社長の華. GLOBAL

Rionne Mcavoy氏 Japan Media Service「ドキュメンタリー専門家として日本を世界へ発信」

厳格な父の元、格闘技漬けの幼少期

Q:幼少期の思い出をお聞かせください。

父はイギリスのリバプール出身で、1970年代にオーストラリアへの” 移民キャンペーン” で片道切符を手に移り住みました。そこでオーストラリア国籍の母に出会い、1981年に私がシドニーで誕生しました。

3歳からクイーンズランドのゴールドコーストに移転。当時は多くの日本人が現地のゴルフクラブやホテルを所有し、街には日本企業の看板が溢れていた時代です。7歳の頃スクールキャンプに参加した私は12歳の肥満体型の歳上をからかった事で私は彼に殴られてしまいました。それを知った父親から『何故男として戦わなかったのか』と怒られ、翌週には「テコンドーを始めろ」と道場に連れて行かれました。そこから私の武道生活が始まりました。

非常に厳格な父親で、週6日はサンドバックを叩いてサボる事は決して許されません。その為、日に日に私は強くなり13歳には黒帯2段まで昇段してオーストラリアのジュニア代表に選出されました。そのピークの頃に、父から『次は空手をやれ』と言われ手が使える空手の道に転身しました。当時父も合気道をやっていたのですが、高校生の頃テレビ向けの業務用カメラを購入して私にその練習風景を撮影させたのが、私の映像経験の始まりです。

転機となった学生時代の東京への初来日

Q :どの様な経緯で来日しましたか?

高校生の頃はバスケットボールやラグビーに興味を抱き、格闘技への熱意が冷めて16歳に父に初めて反抗して空手を辞めました。それから父からは1年間、口を聞いてくれませんでした。カメラを撮影する事でアクショスターに憧れを抱き、同時に当時人気であったWWEFを観てプロレスラーの道も意識する様になりました。

19歳はオーストラリアのIT系専門学校に通っていましたが、日本に既に留学していた幼馴染の友人から日本に誘われ、2000年11月に初来日して、2ヶ月間品川に滞在しました。最初の日本の印象は “渋谷スクランブル交差点” のネオンライトです。オーストラリアにはない光景でその驚きは今でも鮮明に覚えています。それまでの人生、オーストラリア人しか知らず、朝5時に起きて仕事をしてビールを飲んでテレビを観て寝る。そんなオーストラリアでの単調な生活を過ごしていた田舎者の私が、突然 “東京” というビックシティーに来て日本好きになりました。東京滞在中で一番魅力的だったのが、ブラジルやニュージランド、アメリカなど様々な国籍の友人に出会えた事です。

オーストラリアに帰国後、2年程のブランクがありましたが自らの意思で19歳で空手を再開する為、厳しい父の元に戻りました。戻った当初は父から『お前の好きにやれ』と私の練習を一切見に来ませんでしたが、父との関係性も改善した頃19歳でオーストラリアの空手チャンピオンになりました。また大学では合気道も経験しました。

その後も刺激を受けた日本の滞在生活が忘れられず、いつか日本に戻りたいと思っていました。そこで駅前留学NOVAのブリスベンオフィスに英語の先生として採用され、その後正式に2001年11月の20歳の時にワーキングホリデーで再来日を果たして1年半ほど滞在しました。

当時、私の周りには日本語堪能な知人が多くいた為、日本語が私のコンプレックスでしたが、9ヶ月後には吉祥寺で日本のホストファミリーとホームステイを経験、そこで多くの日本語を学びました。再度オーストリアに帰国後は日本語の更なる習得を目指して、ゴールドコーストの Griffith Universityで1年生から日本語専攻で出戻りスタートをしました。その後2004年の2年生では成蹊大学との交換留学で再度1年程東京に滞在しています。

プロレスラー “藤原ライオン” としてデビュー

Q:卒業して再来日した後はどの様な活動をしていましたか?

2005年12月に無事大学を卒業した後、ALT(外国語指導助手)として小中学校の英語教師の仕事で再来日。それから今日まで在日18年目です。昔からアクションスターとプロレスラーの夢がありましたので、仕事の傍ら格闘技をしながら2009年にショートフィルムで初の役者としてデビューしました。ショートフィルムは完成しましたが、私の演技をフィルムで客観的に見て「私は大根役者だな」と感じました。その瞬間、現実的に役者の道ではなく、フィルムを撮る側の”監督業” が私に向いていると感じたのが今の仕事に繋がります。

役者の道は諦めましたが、プロレスの夢はありました。ジムで身体を作り上げ、合気道やキックボクシングもやりました。ある時占い師にタロットカードで診断してもらう機会があり、彼女からは『ライオンは人生でやりたい事が出来ていないね。何をやりたいの?』と聞かれ、『実はプロレスをやりたい』と答えると、その占い師からプロレス団体を紹介されました。そのご縁があり、その後は全日本プロレスやプロレスリング・ノアに参戦。藤原喜明さんやTAJIRIさんなどをトレーナーとして、武藤敬司さんや猪木さんとも同じリングにも立たせて頂きました。2013年 “藤原ライオン”でデビューしましたが、wikipediaは以下写真をクリックすると確認出来ます。

藤原ライオンさん wikipediaより

その様なプロレス漬けの日々の中、当時会社のカメラマンが退職した事で「社内でカメラを撮影出来る者はいないか」と私が任命され、プロレスと並行して団体のカメラ撮影担当を任されました。そこで更に撮影ノウハウを習得しました。

BBCの依頼や自作ドキュメンタリー映画の制作へ

Q:今の事業内容を教えて下さい。

この様な経験を元に、2015年ジャパン•メディア・サービス(JMS) を設立しました。幸運な事に仕事の依頼を多くいただき業務を通して更に腕も上がりました。その後のコロナ禍では、海外からカメラチームが来日出来ない事もあり「日本国内でバイリンガルのカメラマンが必要」だと、BBCから高齢化に関するドキュメンタリー依頼やその他では、オリンピック協会やNHK、東京都などの仕事の依頼が続きました。

また2021年に福島県から「福島産の食物は安全である」とのキャンペーンに関するドキュメンタリー風のPR動画の制作にも携わりました。その福島のPR動画を通して、東京オリンピックの際にイギリスやシンガポールの外交官の目にも届き、結果として5カ国が福島の輸入禁止の取り辞めが決まり輸入再開に至り、私自身も大いに喜びました。

Japan・Media•Service 制作実績一例

これらの活動を通して私は映像の中でも特にドキュメンタリーに向いていると確信を得て、「取り残された人々:日本におけるシングルマザーの苦境」との題名で、シングルマザーに焦点を当てた自作ドキュメンタリー映画を制作し、横浜国際映画祭でも上映されました。

TRAILER 予告編 : The ones left behind: The plight of single mothers in Japan 「取り残された人々:日本におけるシングルマザーの苦境」

ドキュメンタリー専門家として日本を世界へ発信

Q :今後のビジョンをお聞かせ下さい。

今後はドキュメンタリーに更に力を入れていきたいです。撮影したいのは日本の様々な社会的実情でして、例えば子供のメンタルヘルスを深くまで掘り下げたいです。日本では昨年18歳未満の学生の500人以上が自らの命を絶っています。若者に関するこの様な数字は海外ではあまり聞きません。なぜ日本人はここまで追い込まれてしまうのでしょうか。

ドキュメンタリー専門家として、子供の頃の武道やプロレスでの映像経験が全て繋がり、自分の道がようやく見つかりました。ドキュメンタリーは人の話しを聞いてその方のストーリーを世の中に伝える仕事。今回のシングルマザーの苦境に関する作品も『取り残された人々』シリーズとして今後も継続していきたいです。

最近、日本以外からのオファーを頂く機会が増えて、先日Google本部があるシリコンバレーまで行き社内動画を撮影して来ました。今後も日本を拠点としてアメリカやオーストラリアなど海外での撮影も挑戦して、より多くの日本の現状や魅力を世界に発信して行きたいと思います。

Rionne Mcavoy(ライオン・マガヴォイ)さん

有難うございます。武道の習得や日本でのプロレスラー経験から、ドキュメンタリー映像の制作まで異色の経歴を持つライアンさん。個人的にも今後のドキュンタリーシリーズが気になりますので注目していきたいと思います。皆様もドキュンタリー映像を是非ご覧下さい。

Rionne Mcavoyさんのプロフィール

会社:Japan•Media•Service(JMS)

ウェブサイト :https://japanmediaservices.com/

出身: オーストラリア Griffith University 卒

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