北海道での学生起業と、卒業後の起業の経験
✅ 北海道出身との事ですが、学生時代はいかがでしたか?
生まれも育ちも北海道の旭川で、旭山動物園の近くで育ちました。学生時代の21歳まで旭川にいましたが、当時から起業に関心があり、在学中から会社の立ち上げを経験しました。初めての起業は、化粧品販売事業で、無店舗型で女性向けに対面で販売していました。また、当時携帯電話が普及し始めていましたので携帯電話と、中古車を販売するブローカー業も並行して行いましたが、経験不足だったのか、結果的に初めの起業としては大きく飛躍できず撤退に終わりました。その頃の経験が良い糧となって、今に繋がっていると思います。
卒業後には、カーナビ制作会社や消化器を売る飛び込み営業の会社で働いていました。当時から社員としてではなく、いずれ起業したい想いが強くあり、当時知人から、「 携帯電話の取引をしないか。」という話を頂き、その話に乗り、旭川から札幌に引っ越して、飛び込み訪問の専門店として会社を設立しました。携帯キャリアとしては、ドコモ、Jフォン、IDO(現 au)の3社を扱っていましたが、その内1社から1キャリアに絞って販売して欲しい。との要望があり、それに対して難しい。と回答したら、取引停止になったりと様々な困難がありました。
更に大きな試練となったのは、冬にオフィスの暖房だけ落として、水道線を開けたまま止めずにいたことで、水道管が破裂してしまい、オフィスと他店舗まで水浸しにしてしまった事があります。無知で保険にも入ってなかった為、当時22歳の私はその修繕費として一夜にして〇〇〇〇万円以上の借金を抱える事になったのです。自分の持ち金だけでは勿論足らず、親からと消費者金融からの借入でどうにかその場を凌ぎましたが、事業はもちろん再開出来ず、無収入のまま凹んで半年ほど引きこもりました。卒業後の起業でも成功どころか、失態を犯して借金返済の生活が始まったのです。
仙台から埼玉へ。手取り13万円からの下積み生活
✅ 札幌での苦い起業経験から今に至る経緯を教えてください。
引きこもり生活を続けていたら、結局は、”悩んでいてもしょうがない” と開き直った頃、学習塾を経営している知人から雇われ社長として仙台で一緒に事業をしないか。というオファーを頂きました。立ち上げから軌道に乗るまで、ある程度成長させましたが、オーナーご夫婦が結構厳しい方で、結果的に半年ほどでその会社を辞めました。
当時は会社を転々とする生活を送っていましたが、最後に社員として勤務したのが、今の仕事にも繋がるIT関連の仕事です。その会社は、本社は札幌ですが、家の近所の仙台出張所勤務のオファーがあり、ご縁を感じて勤務しました。
その会社は、厳しい環境でして、東北6県の消費者金融の無人契約機を全て一人でメンテナンスするというハードな業務でした。1日1000キロ車を走らせたり、休みも日曜日のみで、給与は手取りで13万円程でした。1年半ほど、どうにか耐えて頑張っていましたが、「 次は、東京行ってSEやってくれ。」としつこく説得されたので結局東京ではなく、サッカーで有名な埼玉県の浦和でCE職として事務所と私の自宅を構えました。DELLやHPなどのハードウェアを保守する仕事で、修理依頼が来たらお客様に訪問する仕事です。こちらも1年半ほど継続しましたが、年間1400ー500件程、1日5−6件はお客様先を周りました。普段、一般の人が入れないような和光にあるホンダの研究所や理化学研究所、NHKのデータセンターに訪問するなど貴重な経験が出来ました。人手が足らず、1度だけ発熱で休むことがありましたが、ほとんど休めずきつかったです。結局3年間程その会社にはお世話になりました。
結果的に、エンジニア職に携わったことが、今の仕事に繋がっている訳です。手取り13万円から、ある程度経験を重ねると給料アップはしましたが、30歳手前でも手取りで18万円くらいでした。また当時は健康保険も厚生年金もなかったです。エンジニアの仕事は、自分はどうにか知識なしのゼロからスタートしましたが、同じ現場で遭遇する様々な会社の方と話す機会があり、周りの人は5年から10年経験ほど経験があったのですが、努力を重ねた事もあり、自分の能力が彼らより低いと感じる事はありませんでした。ところが、彼らの給料は500万円とか600万円だと平気で言うのです。自分は総支給で月額23万、年収でも250万円程で彼らの半分以下で大変でした。
その様な中、疲れで体調も崩した事もあり、会社には 「 そろそろ辞めます。」と言いましたら「 給料を40万に上げるからどうにか居残ってしてくれ 」と、社長から引き止められました。が、しかし、もう一度起業したい想いと、ある程度経験が身に付いていた時期だったので、結局退社して、その後の独立に至るのです。
進学塾の買収からインフラエンジニア業で起業
✅ フリーから現在の事業に至る経緯を教えてください。
フリーのエンジニアとして仕事を受注し始めましたのは33歳の時です。その時の変化として、30歳くらいまで私の体重は50キロくらいでしたが、エンジニアとして基本座り続けて、昼ごはんを食べるくらいの生活を3ヶ月繰り返すと、体重が20キロくらい増えてしまったのです。人間はこんなにも太れるものなんだと驚きました。
当時、一時期、別のIT系の知人社長から「うちの会社に来てよ。」と取締役のオファーを受けることがあり、現場に出る取締役として2年間の任期で働く事もありましたが、2014年から現在の会社を立ち上げました。元々日本橋の浜町で進学塾を経営されていたご家族の方と知り合い、その方が「事業をそろそろ辞めようかな。」と言ってたので、それでは私に買わせて下さい。とその会社を買収しました。ゼロから会社を登記するより、既に屋号や社歴があった方が楽で都合が良いと思い、オフィスも社員もいなくゼロからの状況でしたが改めて会社運営を開始しました。
業務内容としては、インフラエンジニアというITの根幹に関わる、OS、ミドルウェアの設計、企業様のやりたい事を実現する設計から構築まで提供しています。それに加えて、エンジニアを教育するスクール事業や、エンジニアはメンタルヘルスで問題を抱えることが多い職業ですので、精神的な部分もサポートもしています。
✅ 組織を纏める苦労や、信条などありますか?
最初は外注するのが嫌で、社員だけで仕事を回していました。現在は10人程の社員ですが、社員だけだと売り上げが限定される為、3年前から外部からの協力を必要とし始めました。交流会に出たり、過去に現場で出会った会社さんに声掛けをさせてもらって開拓し、結果的に外部の方の協力を得られた事でより事業が伸びていきました。
プロジェクト規模は大体半年から1年半くらいが一般的ですが、大規模なプロジェクトでは1ヶ月約20人ほど、年間で延べ240−50人くらいは、各プロジェクトに関わっています。属人的な仕事となりますので、抱える人数が増える反面、リスクやトラブルはつきものですが、人に関する苦労がある反面、やり甲斐も感じています。
苦労としては、人に騙される事があります(笑)
応募されてくる方を取引先に紹介する訳ですが、職務経歴書を虚偽で作成される方もいます。「コーヒ店でゼロからドリップする仕事に携わってました」と説明を受けますが、実は一度もドリップしたことのない。「300人規模のプロジェクトのリーダー経験がある」との記載がありながら、実際に深掘りして聞くと300人程が携わるプロジェクトの一部として、自分の会社から参加している3人の社員だけを管理していたリーダーと言った感じで、現実より誇張した場合があるため、経験上の目利きが必要となります。百歩譲っても、嘘をつくなら最後まで突き通して嘘を現実、リアルにしてしまえばいいですが、取引先との信用問題につながる為、その部分は慎重な判断が必要です。書類上のプロフィールだけではなく、しっかり本人と向き合って直接感じる事を重要視しています。
また、当初はやる気があっても継続しないケースや、請負先の環境に馴染めないケースなどもあります。少しでも違和感があれば放置せず、エンジニア本人、また取引先双方で改善出来ないか間に入ります。大半の会社はそこまで交渉、関与はせずドライな対応をしがちですが、問題が常態化すればプロジェクトの進行にも影響を及ぼすため、その構造をどうにか変えて、できるだけお互いが気持ち良くプロジェクトを進められるよう出来る限りのことはします。信条として、なるべく当事者と会って、現場の課題を把握して、どうやって解決できるか話す様にする。これらの事は、時には辛い部分ですが、改善して、上手くいけば、それがこの仕事の醍醐味に感じるのです。
現場で良い環境になる様、Win-Winの関係を優先している点を評価して頂いているのか、お陰様で、今の取引させて頂いている会社様からは、「淺沼がいるから仕事を依頼している」との有難い声を多く頂いています。働く側も雇う側も、受注する側も発注する側もそのような意識でいてほしい。10年以上信頼していただいて付き合いがある会社さんもあり感謝しています。
アマゾンAWSなど世の中の変化と可能性
✅ 世の中の状況は変化していますが、インフラエンジニアに影響はありますか?
最初の6年間はある程度、売上としても順調に右肩上がりでした。ただ、やはりコロナ禍以降大変でした。ITインフラに企業が投資しない限り、エンジニアには仕事が回って来なくなり、また、コロナショックでエンジニアの数が相当減少して奪い合いになっています。元々エンジニアを離れたいと検討していた人が、これを機に一気に他業種に転職しようとする動きが圧倒的に増えたのです。それを知った他社は使える人材を引き止めるのに必死になります。それにより、人の流動性が鈍くなり雇用の絶対数が少なくなる。エンジニアを募集しても人が集まらなくなるのです。
たとえ景気が戻っても、会社としてのプラスアルファの魅力を出さないと人が集まりずらくなっています。お金なのか、お金以外の要素なのか。雇用条件だけでは人はそんなに動かず、他に訴求する何かがないといけない。お金に訴求する以外で皆が望むことの一つとして、一番単純なのは、エンジニアの職種の地位の向上が必要だと思います。インフラエンジニアはプログラマーよりポジションが低く安く見られがちなのを、プラスの印象に転換する必要があります。花形職業のプログラマーよりキツくなくて、給料も変わらず、案件も安定して、お客様と良好な関係を築ける。そう感じる事が出来れば、一旦離れた人が戻ってきたり、新たに始める人が増えてくると思います。インフラエンジニアの良さを伝えていくのは、私の役割だと認識して活動しています。
国内の経済が戻っても、設備投資などお金が周るのは2年から3年後と考えます。一般企業は、翌年の予算を前年に確保して、前年の予算は、2年前の決済状況から弾き出した予算となります。また、システム費用は投資から外されやすい傾向にあります。つまり、初めにシステムに対する予算を削る場合が多いのです。しかし、世界的にも徐々に景況感が上がり始めている背景もあり、システム投資が世界的に活発になりつつあります。日本でもそれに追随しようという動きが見られ、今年の後半から来年、再来年に投資が増え、インフラエンジニアとして、自分達の仕事も増える可能性があると予測してます。
✅ 将来的なエンジニア市場で注目している流れはありますか?
そんな中、特に注目しているのが、Amazonのサービス、AWSが国内で企業が取り入れる流れが加速しています。それはインフラエンジニアにとっても強い追い風になります。AWSを検討する日本企業はどうやって使えばいいか。より、その一歩手前のどんなサービスがあるか。で留まっているケースが多いのです。その具体的な活用方法を提供できるのがエンジニアであり、それを勉強してるエンジニアが来年、再来年で一気に活躍出来る。弊社もスキルシフトとして今まではオラクルやLinuxなどをメインでやっていましたが、今後はAWSのスキルを身につけて来年に備えよと言っています。AWSは大企業から個人事業主まで幅広く対象となります。以前はオフィス365でワード、エクセルを活用していたのが、今後は個人がオウンドメディアを持って営業するのと同じように、AWSを用いて個人でも世界中の企業相手に仕事できる。日本もAWSの市場が伸びてくると面白くなってくると感じ、今はしっかり準備しています。
インフラエンジニアを通して繋がりを大切にしたい
✅ インフラエンジニアに興味ある方へのメッセージはありますか?
今後、インフラエンジニアを目指す方に言いたいのは、エンジニアは面白いので、辛い辛くないとか、やりたいやりたくないとか関係なく、一度足を突っ込んだら、うちの会社ならそのまま継続してその先までお付き合いできますよと伝えたいです。
今後会社がより成長していく為には、自分の意思を継いで、行動原理を合わせてくれる幹部社員を育てていきたいです。私と同じ様な考えと行動でお客様、パートナーに接してくれるなら積極的にお任せして、更に受け皿として人数を増やす事が可能です。人を右から左に流すだけならいいですが、そんな仕事をしていても面白くない。勿論、ただの人財派遣をしたくてこの仕事をしている訳ではなく、出会った人の人生がそれなりに好転してもらえる様、せっかくの出会いを大切にしています。
エンジニアは、デスマーチという言葉が流行ったくらいですから、メンタルヘルスにも関連する職であります。しかし、例えば、以前他に原因があって一度リタイヤしても「うちならどうにか出来る、私ならどうにかします」と言い。前に進むにはどうするか一緒に考えます。インフラエンジニアがいなければ世の中携帯一つ動かないんだぞ。ATMからお金を引き出すこともできないんだぞ。社会的役割はすごいんだぞと。誇りに感じてほしいです。僕も辛かった記憶が多いのですが、孤独が一番辛いと思います。エンジニアが孤独な仕事であるとは考えない工夫も考えています。
私自身も皆さんと更に人間力を高めて、今後もいろんな方と繋がっていきたいと思います。
有難うございます。一つ一つの人とのご縁、出会いを大切にされ、少しでも関わる方の人生を好転させたい素敵な気持ちを感じることが出来ました。インフラ事業を通して、今後も、より多くのエンジニアの方と淺沼さんとの出逢いにより華開く事を祈っています。
淺沼拓実さんのプロフィール
会社:株式会社アセンダント 代表取締役社長
ウェブサイト:https://www.ascendant.co.jp
住所 : 〒 101-0031 東京都千代田区東神田 2-7-4-503
出身地:北海道旭川市